そもそもファッションって?

そもそもファッションって?

ジェームズ・ギルレイ(英語版)「ファッションを追う」(1794)――当時流行だった短いボディスを着た富裕層の女性とそれを真似た下町の女性を風刺している

ファッションとは、ある時点において広く行われているスタイルや風習のことである。なかでも特に、人々の間で流行している服装や装いを指す。

多くのスタイルは多くの文化においていつでも受け入れられているが、デザインやファッションの流れは文化全体よりも速く移り変わるという点が重要である。「ファッショナブル」(である、でない)という表現はある人や物が最新の、もしくは最新ではなくとも評判の良い表現方法に沿っているか否かを指し示すのに用いられる。ファッションデザイナーはその中にあって「着られる芸術作品」を作ろうと試みる。

服飾(被服)の他、装いに関係する装身具(装飾品、アクセサリー)、美容(理容、髪型、化粧)、香水などもファッションの範疇である。販売促進のためファッション写真、ファッション雑誌、ファッションモデルが発達し華やかなファッションショーも行われ、大きな産業を形成している。さらに広義には音楽などの文化やライフスタイル(英語版)までをも包括しうる。

世界的なファッションの中心地、あるいはファッションの都と呼ばれるいくつかの都市がある。そうした都市ではファッションウィークが開催され、デザイナーたちは観衆に新作の衣装コレクションを発表する。ロンドン・パリ・ミラノ・ニューヨーク・東京は多くの大ファッション企業やブランドの本拠地となっており、世界のファッションに多大な影響力を持っている。

洋服文化とファッション

2008年、ロサンゼルスファッションウィークのランウェイショー

頻繁に変化するファッションという西洋の現象は概して古代には見られなかったし、他の大文明でも数十年前まではあまり類を見ないものであった。ペルシア・トルコ・日本・中国などへ旅した初期の西洋人旅行家たちは現地のファッションの変化のなさをしばしば報告したし、逆にそれらの他文化圏から西洋に来た観察者は西洋ファッションの見苦しいペースでの変化を西洋文化の不安定さと無秩序さの現れではないかと報告していた。日本の征夷大将軍の老中[訳語疑問点]は1609年にスペイン人の来訪者に、日本の衣服は1000年以上もの間変化していないと語った。しかしながら、例えば中国の明では漢服に頻繁に変化するファッションが存在したとする注目に値する証拠がある。

(古代ローマや中世イスラム帝国などでのように)経済・社会的な変革に伴って装いに変化が起こることはしばしばあるが、その後は長きに亘って大きな変化は起きなかった。例えば、ムーア人時代のスペインでは8世紀に、高名な音楽家Ziryab[訳語疑問点]が出身地であるバグダードの風習と自身の創意により、季節と時間帯に応じた洗練された衣服スタイルをコルドバに導入した。同様のファッションの変化は11世紀の中東でも、進出してきたテュルクによって中央アジアと極東の衣服スタイルが導入されて起こった。

ヨーロッパでスタイルが連続的・加速度的に変化してゆく慣習が始まったのは14世紀中頃であるとかなりはっきりしており、ジェームズ・レーヴァー(英語版)やフェルナン・ブローデルなどの歴史家がこの時期を西洋の服飾ファッションの始まりとしている。これを示す最も劇的な変化は男性の上着が突然に大幅に短くタイトになったことで、ふくらはぎまであったものが辛うじて尻を覆うだけのものとなり、また同時に胸を大きく見せる詰め物もすることがあった。これによって西洋男性が仕立てた上着をレギンスまたはズボンの上に着るという概形が生み出された。

マリー・アントワネットはファッションリーダーであった

15世紀にはファッションの変化するペースは大きく加速し、男性・女性のファッション、特に衣服と髪型は、どちらも等しく複雑かつ移り変わるものとなった。このおかげで、美術史家は図像の年代を高い信頼度と精度で特定できるようになり、15世紀の図像の場合では5年単位での特定もしばしば可能となった。ファッションの変化はまずヨーロッパの上流階級全体が非常に似通った衣服のスタイルをしていたのを細分化させ、各国は独自のスタイルを発展させるようになり、17-18世紀にはそれに逆行して再び類似したスタイルを強いる動きが現れ、最終的にはフランスのアンシャンレジームのファッションが支配的となった。通常は富裕層がファッションを先導したが、近世ヨーロッパの富の増大によりブルジョワジーや農民までさえも流行を追うようになり、時としてはエリート階級が不快に感じる水準にまで至った――ブローデルはこれがファッションを変化させる主要な動機の1つと考えていた。

盛装したニュルンベルクの「ブルジョワ」女性(左)とヴェネツィア女性とを対比させたアルブレヒト・デューラーのドローイング。チョピン(英語版)(底の厚い靴)がヴェネツィア女性の背を高く見せている。

16世紀のドイツもしくはイタリアの紳士の肖像画が10枚あれば10個の全く違った帽子が描かれているであろう。この時期は国ごとの違いが最も顕著であり、これはアルブレヒト・デューラーが15世紀末にニュルンベルクとヴェネツィアのファッションを(実録または合成で)対比させた記録にも現れている。16世紀末の「スパニッシュ・スタイル」はヨーロッパの上流階級でのファッションの共時性への回帰の始まりとなり、17世紀中葉の葛藤の後、フランスのスタイルが決定的に指導的位置を占め、18世紀にはこの過程は完結した。

布地の色と模様は年を追って変化したが、紳士の外套の断ち方やベストの丈、淑女のドレスを裁断する時の型などの変化はよりゆっくりとしていた。男性のファッションは主に軍装から派生しており、西洋男性のシルエットの変化はヨーロッパ内の戦域で紳士将校たちが異国のスタイルを目にすることによって刺激を受けていた。「スティーンカーク」(Steinkirk)のクラヴァット(英語版)もしくはネクタイがその一例である。

1780年代には最新のパリのスタイルを伝えるフランスの版画出版の増加によりファッションの変化が加速した。ただし、16世紀には既に見本として着飾った人形がフランスから流通していたし、1620年代以降はアブラハム・ボス(フランス語版)がファッション版画を制作していた。1800年までには、全ての西ヨーロッパ人たちは同じような装いをするようになっていた(か、少なくともしているつもりであった)。地域的なバリエーションはまずは地方文化の形跡、後には古風な田舎者の烙印と見做されるようになった。

仕立屋や裁縫師たちが多くの革新に関与してきたことは間違いないし、織物産業も確かに数多くの流行を先導したが、ファッションデザインの歴史が始まったとされるのは1858年、イギリス出身のシャルル・フレデリック・ウォルト(フランス語版)が最初のオートクチュール店をパリに開いた日である。以降、プロのデザイナーが徐々に支配的な存在となってゆく――多くのファッションはストリートファッションを起源としているにもかかわらず。

現代人は幅広い衣服の選択肢を持っている。何を着るかはその人の人柄や好みを反映しうる。文化的なステータスを持つ人々が何か新しい、もしくはそれまでと違った衣服を着はじめた時、ファッションの流行は始まる。そうした人々のことが好きだったり尊敬していたりしている人達が似たスタイルの衣服を着はじめるのである。

1つの社会の中でも、ファッションは時間の経過だけでなく年齢、社会階層、世代、地理条件などによっても大きく変化する。例えば、もし老人が若者のファッションに沿った装いをしたら、その老人は若者から見ても他の老人から見ても滑稽に映るであろう。最新のファッションに盲目的に追随する人は 「ファッショニスタ」(fashionista)もしくはファッション中毒(英語版)と呼ばれる。

さまざまなファッションを着て見せびらかすという営為の体系は、さまざまなファッション文をファッションの文法を用いて組み合わせるファッション言語とも見做せる(ロラン・バルトの仕事を参照)。

日本のファッション

日本では服装の西洋化が広まっているが、その直接的な要因は1858年の日米修好通商条約だとする説がある。

それによると、この条約により各地の港が開かれ、役人や通訳などの直接外国人と交渉をする立場の人間を中心として、服装の西洋化が広まっていくことになる。

1543年に種子島へポルトガル船が漂着した時から鎖国までのしばらくの間にも、一部の大名などに贈呈されるなどして、少数ながらも西洋の服飾は流通しており、江戸時代末期には長崎の出島などでは特別珍しいものではなかった。

1864年には、禁門の変を理由に長州征伐の兵を挙げた幕府が、その時の軍服を西洋式にすることを決め、小伝馬町の商人である守田治兵衛が2000人分の軍服の製作を引き受け、試行錯誤しながらも作り上げた。

日本においての洋服の大量生産は、記録に残る限りこれが初だとされる。また、断髪令により髪型も従来の髷から散切り頭となった。

その後しばらくは、小規模ながらも各地に洋服の貸し出し店や洋服販売店ができるようになり、1871年に陸軍や官僚の制服を西洋風に改めることを定めた天皇の勅諭(太政官布告399号「爾今禮服ニハ洋服ヲ採用ス」)が発せられた以後、警官・鉄道員・教員などが順次服装を西洋化することになる。

1923年の関東大震災では、身体の動作を妨げる構造である和服を着用していた女性の被害が多かったことから、翌1924年に「東京婦人子供服組合」が発足し、女性の服装にも西洋化が進むことになる。

1927年9月21日には、当時の銀座三越において日本国内初のファッションショーが開催される。これは一般からデザインを募ったファッションショーでもあった。

また、日本橋にあった「白木屋」デパート(旧・東急百貨店日本橋店の前身)にて、昔発生した大規模火災で、やはり和装の人々に被害が多かったことも相まって、従業員の服装を西洋式に改める百貨店が増加し、更にそれにならう形で、大衆の服装の洋式化も徐々に広まっていった。

1930年代後半から1940年代前半にかけては、戦時体制により繊維・衣服の統制が極端に進み、さらに百貨店自体の売り上げが低迷した時期でもあった。

1945年に衣料切符制度がとられ、国民服と呼ばれる統一規格の洋服が配給され、数少ない配給衣服の着用での生活を余儀なくされる。絶対量が少なかったため、和服をもんぺに作り替える者も多かった。

戦争による壊滅的な打撃を受けた日本は、敗戦後はアメリカなど連合国からの援助に頼ることになった。食料など様々な物資不足はもとより、衣服も不足し闇市でも入手できない立場の大衆は、1948年からGHQの放出衣料による古洋服の着用を始める。戦争からの開放感もあり、「占領軍ファッション」として中古アメリカ衣料への傾倒が起こり、戦後初めての流行感覚が生まれた。

ナイロンをはじめ化学繊維の統制撤廃の後、化学繊維を使用した衣服が作られ始めるのは1951年頃である。日本の繊維産業はすべて手探りの状態から、ビニロンやテトロン(ポリエステルの商品名)、レーヨンなどの化学繊維の開発、製造を始めた。

1953年には、当時ヨーロッパで隆盛を極めたファッションデザイナーのクリスチャン・ディオールが来日し、海外ファッションの導入が始まった。当時の洋服は基本的に注文品で、オーダー服を基軸にしたオートクチュールだったが、日本国内では繊維不況のあおりを受け、そのような最新ファッションは大衆の手に入りにくいものとなっていた。

1958年には、同じくピエール・カルダンが来日。量産のプレタポルテの時代の到来を告げる。当時、オーダー服と量産既製服の占める割合は7対3程度にまでなりつつあった。この後、1960年代以降から衣料の大量消費の時代が始まることになる。しかし、一般には修繕した継ぎのあたった衣服は、家庭での普段着や作業着にまだ多く目につく時代だった。

1975年頃よりニュートラが全国的に流行。これにより海外高級ブランドユーザーの大衆化(若年齢化)やセレクトショップのブーム、ファッション誌のモデル大量起用など、時代の転換点となった。

ファッション・ジャーナリズム(英語版)はファッションの重要な一部分である。 者による批評や解説が雑誌、新聞、テレビ、ファッションサイト、SNS、ファッションブログ(英語版)などで行われている。

20世紀初頭から、ファッション雑誌は写真やイラストレーションを盛り込みはじめ以前よりも一層強い影響力を持つようになった。世界中の都市でこれらの雑誌は大人気となり、一般人の嗜好に深い影響を及ぼした。最新のファッションと美容の変化を伝える出版物のために才能あるイラストレーターたちが洗練されたファッション画を描いた。こうした雑誌のうちで最も有名なのはおそらく、リュシアン・ヴォージェル(フランス語版)が1912年に創刊し、戦時中を除き1925年まで定期的に刊行された『ガゼット・デュ・ボン・トン(フランス語版)』(『上品な雑誌』)であろう。

1892年にアメリカ合衆国で創刊された『ヴォーグ』は現れては消えていった無数のファッション雑誌の中で最も長続きし最も成功したものである。第二次世界大戦終結後の経済的繁栄と、そして何より、1960年代の安価なカラー印刷の出現によってヴォーグ誌は爆発的に部数を伸ばし、また主流の女性雑誌でもファッションを大きく取り上げるようになった。1990年代には男性雑誌もこれに続いた。オートクチュールのデザイナーはプレタポルテと香水を扱いはじめることでこの流れに乗り、これらは雑誌で大々的に宣伝され、現在では本来の服飾ビジネスを矮小化する結果となっている。テレビでは1950年代にファッションの小特が組まれるようになった。1960-70年代にはさまざまな娯楽番組でファッションのコーナーがより頻繁に流されるようになり、1980年代にはファッションテレビジョン(英語版)のようなファッション専門の番組も出現した。テレビや、近年のファッションブログなどのインターネットによる露出の増大をよそに、ファッション産業の視点からは出版物による露出は最も重要な広告形態であり続けている。

2006年のファッション写真

ファッション者のシャロン・マクレランはこう語っている――「ファッション界には、テレビ・雑誌・ブログが消費者に何を着るべきかを命令しているのだという誤解があります。しかし、ほとんどのトレンドはターゲット層を調査してからリリースされています。従って、あなたがメディアで目にするものは、人々の間で人気のあるアイデアを調査した結果なのです。本質的に、ファッションというのは人々がアイデアをキャッチボールする営みなのです、他のアート形式もみなそうであるように。」

知的財産権

ファッション産業では、映画産業(英語版)や音楽産業でのようには知的財産権は施行されていない。他の誰かのデザインから「インスパイヤされる」という営為は、ファッション産業が衣服の流行を作り出す能力に貢献している。新しい流行を作り出すことで消費者に衣服を買うよう誘い込むことはこの産業の成功の鍵となる要素である。流行を作り出すプロセスを妨げる知的財産権は、この観点からは、非生産的なものとなる。その一方で、新しいアイデアや、ユニークなデザインや、デザインのディテールなどを大きな企業があからさまに剽窃するのは、数多くの小規模な独立したデザイン会社を破綻させている原因であるともしばしば議論される。デザイン性の高いファッションアイテムを安価で購入できるのは、消費者にとっては望ましいことのように思われるが、トレンド発信源であるデザイナーに十分な報酬が行き渡らなくなり、結果としてファッション業界が衰退してしまうという恐れがある。ニューヨーク州では米ファッションデザイナー協議会などが、ファストファッション企業の行為を差し止め、デザイン保護が認められるよう州政府に働きかけている。現在のファッション産業において、法とファッションの関連性が高まっている。

2005年に世界知的所有権機関(WIPO)は協議会を開き、中小企業を保護し、織物・服飾産業内での競争を促進させるためファッション業界での知的財産権のより厳密な施行を求めた。